中国古典 | 荘子の名言
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 鷦鷯、深林に巣くうも一枝に過ぎず

 「鷦鷯」とはみそさざいのこと。
みそさざいは林の奥深く巣をつくるが、
必要とするのはたった一本の枝にすぎない、という意味です。

 さして長くもない人生であれもこれもと欲ばると、
欲望に振り回されて、自分にとっていちばん大切な
「深林の一枝」に気づかないまま人生が終わってしまう。

 いま、自分が価値ありと信じて追求しているものが、
見方を変えれば取るに足りないものかもしれないのです。

 

 時に安んじて順に処れば、哀楽入る能わず

 時のめぐりあわせに安んじ、自然の流れに従っていれば、
哀も楽もない、流れに逆らわない自然流の生き方がいい、というのです。

  あくせく生きるだけでは、人生を豊かにすることはできない。
流れに身を任せた自然流の生き方で、ここぞというときに頑張る。

 のんびり生きているように見えながらじっくりと力を蓄えている。
そんな生き方を心がけてみたい。

 人みな有用の用を知りて、無用の用を知るなきなり

人は誰でも「有用の用」は知っているが、「無用の用」を知っていない。
世間の人々は、いたずらに有用性ばかり追及して、
無用と思われているものこそ実は有用であることに気づかない。

「無用の用」のいちばん身近な例は、
日常なにげなく交わしている挨拶でしょう。
人間関係を円滑にするのに、こんな「無用の用」が欠かせない。

なくても一向にに差し支えないように思える「無用の用」が身近に多い。
それらに気をとめて「有用の用」にする。それも大切な生き方であろう。

 

 人は流水に鑑みるをなくして、止水に鑑みる

 流れる水はざわついているので、人の姿を映し出すことができない。
静止した水は澄みきっているので、あるがままに人の姿を映し出す。

 他人の意見や既成概念にとらわれていては、
「流水」と同じで心が波立ち、正しい判断ができなくなる。

 雑念を振り払った「止水」の心境になってはじめて、
正しい決断ができるのです。

 坐亡

 五体からの力を抜き去り、いっさいの感覚をなくし、
身も心もうつろに成りきった状態をいう。
「明鏡止水」と同じく、「無心の境地」と考えてもよい

 身も心も虚に成りきったとき、人間は無限の自由を獲得できる。
それによって、固定観念や既成概念にわずらわされることなく、
正確な判断を下せるのだという。

 大変なミスを犯したときや想定しない事態に陥ったときに、
「坐亡」になりきって正確な判断を下せるか。これは難しい問題だ。
日々の淡々とした精進と、ねばり強い鍛錬が必要になってくる

 螳螂の臂を怒らして以って車軼当たるがごとし

 螳螂(カマキリ)が鎌を振り上げて車輪に立ち向かっている。

愚かで無謀な行動をたとえている。ドン・キホーテの如く、
成算ゼロの戦いを挑むのは愚の骨頂ということになる。

自分の力をわきまえ、相手の力を知ってこそ勝算も生まれてくる。

 勝算がないときは、もう逃げるしかない。
逃げることは決して恥ではなく、その間に戦力を温存しておけば、
また情勢が変わって勝てるチャンスがめぐってくる。

 これを望めば木鶏に似たり

 見たところ、まるで木彫りの鶏のようです。

他の鶏がどんなに鳴き騒いでも、まったく動じる気配がありません。
他の鶏はその堂々とした泰然自若な姿に恐れをなして逃げていきます。

 これは、闘鶏の訓練を命じられ、それを終えた調教師が、
王に進言した言葉で、有名な逸話。

 不世出の名横綱・双葉山は連勝記録が六十九で断たれたとき、
 尊敬する先輩に
「ワレイマダモクケイタリエズ」という電報を打ったという。

 直木は先ず伐られ、甘井は先ず竭く

 材木にするにはまっすぐな木から切り倒される。
井戸も、うまい水の出るものから飲みつくされるのだという。

 能力や才能がその場によく適合し、目立ち過ぎると、
かえって足を引っ張られたり、使い捨てにされやすい。
つまり「出る釘は打たれる」状態。

 進むときも先頭に立たず、退くときもしんがりを努めない。
このような「出ない釘」として生きていくのも捨て難い魅力がある。

 利を以って合する者は、窮禍患害に迫られて相棄つ

 利害関係で結ばれた者は、
苦境や困難に直面すると、簡単に相手を見捨ててしまう。

 日本には「金の切れ目が縁の切れ目」という諺があるように、
損得勘定で結ばれた人間関係はいずれ破綻する。

 しかし、深い信頼で結ばれた友人関係であれば、
苦境に立ったときでも互いに親身になって助け合うことができる。

 利害や損得勘定で結ばれた関係にあれば、
アテにできない状態であることを心得ていなければならない。

 蝸牛角上の争い

 宇宙の彼方から見れば、国々の争いは
蝸牛(かたつむり)の左右の角が争いをしているようなもの。

故に「蝸牛角上の争い」は、些細な事の例えに使われるようになった。

「 国同士の戦争も《蝸牛角上の争い》みたいなものだ。
そんなちっぽけでくだらないことはやめて、
もっと大きな目で政治をしなさい 」という『荘子』の忠告です。

いま成そうとしている事が価値あるものかどうか、
大局的見地から客観視して判断することが肝要。

 君の読む所のものは古人の糟粕のみ

 あなたが今読んでいるその本は、
昔の人の糟粕(酒カス)のようなものです。

 聖人が書物で説いた「道」は文章だけでは、
肝心な事はなかなか伝えきれるものではありません。 ですから、
その本に書かれていることは、何の価値もない糟粕でしかないのです。

 要するに、これは知識万能に対する警告と受け取ればいい。
どんな名著でも、
読んで鵜呑みにするのでは、それこそ糟粕にしかならない。
自分の頭で考え、どこまで咀嚼できるかが問題なのです。

 君子の交わりは淡きこと水の若し

 徳が高く品位のある人の交際は水のように淡々としている。

 紳士のつき合いは、ベタベタとまとわりつくようなつき合いではなく、
水のようにさらりとして、
付かず離れず、適度な「間合い」が保たれている。
「くっつくのも早いが、別れるのもまた早い」
という長続きしないつき合いではありません

 この「間合い」は相手に対する「思いやり」でもあり、
「責任」をも伴っているのです。

 寿ければ則辱多し

 長生きすれば、それだけ恥をかく機会が多くなる。

 これもひとつの見識ではあるが、
『荘子』はこの見識に拍手を送ったわけではない。
そのようなことにこだわっているうちは、
まだ人生の名人、達人の域からはほど遠い、と批判しているのです。

 ひとつの価値観を信奉して、
それをかたくなに守っていこうとすれば、生き方に無理が生じてくる。
世間の価値感を超越したところに本当の自由がある、という。

 我を馬と呼ばば、これを馬と謂わん

 あなたが私を馬だというならば、私は馬だと認めましょう。

「人がそういうからには、それなりに根拠があるはずだ。
それに逆らえばいっそう手ひどい目に遭う。
私はいつでも人に逆らったりしない」

これは、『老子』の言葉であるが、『荘子』もまた、
何物にもとらわれない老子の自然流の生き方に、
全面的に賛同しているのです。

 窮もまた楽しみ、通もまた楽しむ

 窮な人も、通な人も楽しめる。

「窮」は逆境、つまり貧乏。「通」は順境、つまり金持ち。
逆境にあろうと順境にあろうと、
そんなことにはとらわれないで人生は楽しめる。楽しみというのは、
逆境だから楽しめない、順境だから楽しめるというものではない。
 たとえ生活のレベルが低くても、
あくせくしないで、ゆったりと人生を楽しんでいる人もいる。

要は、夫々の境遇に応じたあるが侭の人生を楽しみなさいということ。
 
鷦鷯しょうりょう深林しんりんくうも一枝いっしぎず
ときやすんじてじゅんれば、哀楽入あいらくいあたわず
ひとみなようりて、無ようようるなきなり
人は流水にかんがみるをなくして、止水しすいに鑑みる
坐亡ざぼう
螳螂とうろうひじいからしてって車軼しゃてつに当たるがごとし
これをのぞめば木鶏もくけいに似たり
直木ちょくぼくられ、甘井かんせいは先ず
利を以ってがっする者は、窮禍患害きゅうかかんがいに迫られて相棄あいす
蝸牛かぎゅう角上かくじょうの争い
君の読む所のものは古人の糟粕そうはくのみ
君子くんしまじわりはあわきこと水のごと
寿いのちながければすなわちはじ多し
われうまと呼ばば、これを馬とわん
きゅうもまた楽しみ、つうもまた楽しむ
 ※守屋 洋著 中国古典「一日一話」より引用

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